強度

強いということは、衝撃に負けない頑丈さではない。
模倣できない強さが生み出す、強度が欲しい。それは、経験や才能や技術や努力が錬成するものでは無いような、気がする。
まだ、解らないけれど。

電車に乗って、わざと頭をからっぽにする。後回しをしては逃げきれない課題から遠ざかる。
五歳くらいの女の子が、目と鼻の先に立っていて上半身でクロールをしながら息継ぎの練習をする。
まだ一度も剃刀を立てていない肌の上で、産毛がそよぐ。とても強いとおもった。

『もっと、光を』

ゲーテの死に際の言葉だ。なんだかよくわからないけど、かっこいい。
彼は、いったいなんの光を欲していたのだろう。死という絶望からの希望の一筋だろうか、大自然を照らす太陽だろうか。その答えは、室内灯だった。病室が暗かったのが気に入らなかったらしい。

わたしはとてもきれいな風景をみているとき、となりにいる人はいったいどんな世界を見ているのかと気になる。わたしがみている世界と、はたしてどれほどの違いがあるのだろうか、と。
どんな光のなかで、どんな色彩で、どんな形をしているのだろうと、気になって仕方がなくなる。毛細血管が運ぶ光の筋は、きっとみんなちがう。

そんなの当たり前のことなのだけれど、普段は忘れている。

五億年ボタンと百年テクノ

人間は24時間に体内のすべての構成物質が入れ替わると言われている。
明日のわたしと今日のわたしと昨日のわたしは、生まれては死にを繰り返しながら、毎日伝言を続けながら物質的には確実に別人へと成り代わっている。
物理的に崩壊してしまわないのは、それらのバトンを渡すタイミングが局所すこしずつずれているからに過ぎない。

3月11日、わたしは町田で数時間徘徊し長蛇の列に並んだのち、ようやく入れたネットカフェで、ひとり不安と絶望の中でtwitterskypeにアクセスしていた。
物質的には触れられないけれど、においも無いけれど、声も聞こえないけれど、そこにある64bitの活字たちを眺めているだけで、なんだかみんなといっしょに居られるような感覚に陥っていた。
ネットカフェの薄い壁を隔てた向こうでは、女の子のすすり泣く声が一晩中聞こえていて、それを子守唄にいつの間にか眠ってしまっていた。

わたしがはじめてインターネット上へ自分の意見を発信したのは、おそらく約10年前だった。
小学校高学年だったわたしの家庭にはじめてやってきたwindowsのパソコンで、恐る恐る書き込んだ同年代の女の子が運営しているブログのコメントだったような気がする。そのブログ内には、暗黙のルールのようなものがあった。コメントをする際に各々が使用するアイコンの種類や、そのブログ内独特の挨拶や言い回しに至るまで、数種類の規則を運営者の女の子は作っていたのだった。顔の見えない相手の気分を害さぬよう最新の注意を心がけて何度も読み返しながら考えた数行のコメントが、どんな内容であったのかはもう忘れてしまった。
しかし、ファンシーなドットイラストで象られた[送信]のボタンを押す瞬間の、胸高鳴る緊張感は身体がしっかりと覚えている。今はもうインターネットを利用していて感じることのない緊張感だ。

80年代末尾に爆発的に普及したブログサービスは驚異的なスピードで、老若男女へと浸透した。
街中ですれ違う•電車で相乗りする•店内で隣に座る、そんな物理的には非常に近しいところに居るのだけれど、精神的には遠いところに居る他人。
そうした微妙な関係性を保つ他人同士が、半透明の世界で触れることはできないけれど精神的つながりを持ったときの奇妙な立ち位置がブログだった。本来なら見ることのできない他人の心うちを覗き見できるという背徳感と、本来なら見せることのない自分の心うちを垣間見せるという背徳感は、
「みだりに個人情報をインターネット上へ公開してはならない」と固く説かれたメディアリテラシーを、SNSの蔓延と共に崩壊させた。
この一連の流れこそが、今日日のオフラインとオンラインの世界が完全にリンクしはじめようとしている現状の発端となっているのだとおもう。日も落ちないし、月も昇らない。昨日も今日も明日も無い、永遠に続く世界だ。

一人暮らしをして時計を見ることが無くなった、6時にテーブルの前に座っても朝食は出てこないし、18時に浴室へ行っても浴槽にお湯は張られていない。
まるで24時間インターネットの世界にいるようだった。いつどこへアクセスしても、いつどこで何をしても良い世界だ。こっちだって、昨日も今日も明日も無い。

グローバルと焼肉

しばらく日記を書かないあいだに、いくつかの場所へゆき、いくつか話をした。


いま関わっている仕事の打ち合わせをかねて、バーベキューにお邪魔した。あとで読み返すと何のことかと思うかもしれない。
大勢のいろいろな国の初対面は、人見知りには非常にハードル高めだった。お肉はおいしかった。
送ってもらった際に、何かタメになりそうな話を聞いたのだが慣れないことをして興奮していたので、反対側の耳から零れていってしまい覚えていない。

FREE DOMMUNEのアフターパーティに行こうよということになり、遊びにいった。愉しかった。
六本木にあるelevenというクラブ。こじんまりしているのが気に入った。スピーカーの近くの空気が震えている。
「まじきもちいいね!」と同年代の男の子が踊りながらフリスクみたいなものをくれた。甘かった。からからに乾いていた喉にまとわりついた。
どこであろうと人見知りは発揮されるもので、ここでもわたしは「アッ ソッスネ!」を繰り返していた。

回転寿司。
カラフルな宝石みたいにお寿司がグルグルと周っている光景と、民度の高さがすき。
日曜に寄った近所の回転寿司は、板前が女性だったり30分に一度店員がお寿司を勧めてきたりして、回転寿司も変わったなあとおもった。

そんなかんじ。二度寝を続けている気分。

三面鏡とベランダ

祖母の姉は、画家だった。
一人で大きな庭のある立派な長屋に住んでいて、絵を描くことと庭をいじることだけが生き甲斐のようであった。
祖母や母は、彼女のことをあまり良く思っていないようで、わたしが彼女の家に遊びにゆくと駄々をこねると怪訝な顔をしていたが
いざ彼女の家に着くと、笑顔の能面を貼付けて乾いた声で笑っていた。

小柄な彼女が一人で住むには広すぎるその家には、使われていない部屋がたくさんあって
わたしは厠(かわや)へ立ったときなど、一目を潜んではその部屋部屋をそうと覗くのが愉しみのひとつだった。
薄暗く黴臭い部屋は、わたしの住む家のどんなところにも居ない光と空気を孕んでいて、何か覗いてはいけないものを覗いているような背徳感と罪悪感がわたしの胸を高鳴らせていた。
レコードの山や、フランス人形の群、古い外国の切手や洋紙皮が、ひっそりとこっちにおいでと手招きしてくる。だけれどもわたしには敷居を跨いでしまったら最後、薄闇から戻ってこられなくなるような気がして
覗くだけで部屋の中に入ったことは無かったのだった。

あるとき家の主である彼女から、物置の片付けの手伝いを頼まれた。
大きな三面鏡のついたドレッサーがひとつ置いてある部屋で、そのときわたしははじめて三面鏡を観たのだった。
そっと三枚の扉を開けると、そこにはこれまで観たこともない景色が広がっていたのである。
正面を向きながら自分の前頭と側頭と後頭を一度に観る体験は、まるで目玉が幾つもあるかのような錯覚に陥って頭がクラクラした。通常の鏡は、鏡の外側に居る自分と鏡の内側に居る自分が、ひとりづつ対になっている訳であるが、三面鏡はその概念を打ち破る。鏡の外側に居るひとりの自分に対して、鏡の内側に居る三人もの自分が、自分を見つめ返してくるのである。幼心に衝撃であった。

右手を挙げれば左手を挙げ、左目を右手で擦れば右目を左手で擦る。
そんな当たり前の鏡の中の出来事が、わたしが急に疑わしくなってきたのだった。
目を皿のようにして、丹念に入念に鏡の内側に居る自分を睨みつけながら、わたしはしばらく三面鏡の前でああだこうだと動き回ったが、とうとう最後まで鏡の内側に居る自分はそっくりそのまま真似を成したままであった。
当時、若干の懐疑概念に囚われつつあったわたしは、なおも言いようも無い疑いが晴れず、だれも居ない物置の中で右往左往を繰り返すうち、明確な疑問が頭に浮かんだ。

「いったい、扉の閉じた三面鏡には何が映っているのだろう?」

今思うと、なんとも滑稽で愚かな疑問であるが、当時のわたしは本気だった。
ふいに扉を開いたり閉じたりすれば、鏡の中の「何か」が隠れ損ねてすこしは目撃することができるかもしれないと考え、挙動不振に扉を開けたり閉めたりしながら隙間に顔を突っ込んで夢中になって中を覗いた。
そうこうしているうちに、いつまで経っても物置から出てこないわたしを心配して家の主が様子を観に来て、紅潮する頬で興奮気味に早口で説明するわたしを観て笑った。

なぜあの時、この珍妙な疑問は生まれたのだろうかと考える。
それは、わたしが当時懐疑主義に陥っていたからでもなく、あの薄暗い部屋に恐怖を感じていたからでもなく、ましてや鏡の構造を理解していなかったからでもない。人と人のコミュニケーションで自然発生する「見ること」と「見られること」という関係性の精確さを、なんとしてでも証明してやりたかったからである。
そうした意地が姿を変えたものこそが、「いったい、扉の閉じた三面鏡には何が映っているのだろう?」という疑問だったにちがいない。
高校に進学し、いつのまにか彼女の家に行かなくなってしまったわたしは、ふと彼女のことを思い出し母に尋ねた。
彼女は数年前に長屋を引き払い、高級シニアマンションに移ったらしい。あの三面鏡はどこへ行ってしまったのだろうか。

ラジオとトマト

ロンドンでオリンピックをやっている。
日本チームが試合をやっているあいだは、テレビだけでなくラジオまでも通常放送をやめて試合中継を流している。
テレビのそれは、視聴率をより高くとるためだと思っている。ラジオも聴取率のために、全局がそうしているのだろうか。

試合のない夕方にラジオでは比較的若い男性(の声)が、
日本が他の先進国に比べ、メディアの現状が大幅に遅れていると嘆いていた。
すでに外国では数年前に完了している「他言語化」「提供スタイルの変化」「デジタル化」以上の3点が、今後の進化するであろうと述べている。日本のメディア進化の遅延を招いているのはメディア自体であり、既得権益や利権構造に囚われノスタルジーに浸っているに過ぎないというような旨だった。

すでに幾度となく紙媒体の今後については語られてきたのは、代替する新しいメディアの登場により消失する既存メディアを考えるからだ。洗濯機がでてきて洗濯板は消えたが、テレビが出ても映画もラジオも消えてない。
取って代わるということは、利便性や効率化だけでは成功しない。一覧性や利便性、においや感触といった身体感覚は、紙特有のそれがある。
だけれどそれは本の発売日を待ちこがれ、教科書に落書きをし、学校の資料室で深呼吸をした、紙で遊び学び育った世代だからなのかもしれない。
生まれたときからタブレットのある世代には、はたしてこれらの感覚は共有できるのか。

そのようなことをBGMにトマトを齧りながら思っていた。
昼にはトマトの苗をベランダにあるプランターに植えた。プランターの底に空いた穴よりすこし大きめにカットした網を引く。その上に根腐り防止用の石を置く。そこへ腐葉土を流して、苗を置く。添え木を立てて終了。
最後に”アブラムシやハムシがつきませんように”と念を込めた。

錆び付くインターネットとGoogleの”o”

現在、お仕事でとある海外向けのアプリケーションの企画およびデザインに携わっている。
アプリのUIは以前手をつけたことがあるけれど、そのときはまだお遊び程度だったので、今回学ぶことが多く久々に勉強のようなものをしている。
1pxの偉大さを感じながら、格闘中。

閑話休題

数年前大学の授業で、講師が「ほんとうに重要な検索結果は、Googleの"o"のうしろのほうにあるかもしれない」と言っていた。検索エンジンの検索結果のページ順は、かならずしも有益な順番では無いという旨だ。
404が増殖してゆくなかで、物理的無制限のインターネット上でどんどん情報が吐き出されてゆく。
質量のない情報というのはときに厄介なもので、蓋をしてしまえば認識の上では無いも同然になってしまう。
今このときも増え続けているであろう、持ち主から放棄されたアカウントはいったいいくつあるのだろう。

何でも手に入る魔法の世界も、気づかぬところから腐食が始まっているのかもしれない。
大事にとっておいた果物をさあたべようかと切り開くとグシャグシャになっていたなんてことは、ある。