ラジオとトマト

ロンドンでオリンピックをやっている。
日本チームが試合をやっているあいだは、テレビだけでなくラジオまでも通常放送をやめて試合中継を流している。
テレビのそれは、視聴率をより高くとるためだと思っている。ラジオも聴取率のために、全局がそうしているのだろうか。

試合のない夕方にラジオでは比較的若い男性(の声)が、
日本が他の先進国に比べ、メディアの現状が大幅に遅れていると嘆いていた。
すでに外国では数年前に完了している「他言語化」「提供スタイルの変化」「デジタル化」以上の3点が、今後の進化するであろうと述べている。日本のメディア進化の遅延を招いているのはメディア自体であり、既得権益や利権構造に囚われノスタルジーに浸っているに過ぎないというような旨だった。

すでに幾度となく紙媒体の今後については語られてきたのは、代替する新しいメディアの登場により消失する既存メディアを考えるからだ。洗濯機がでてきて洗濯板は消えたが、テレビが出ても映画もラジオも消えてない。
取って代わるということは、利便性や効率化だけでは成功しない。一覧性や利便性、においや感触といった身体感覚は、紙特有のそれがある。
だけれどそれは本の発売日を待ちこがれ、教科書に落書きをし、学校の資料室で深呼吸をした、紙で遊び学び育った世代だからなのかもしれない。
生まれたときからタブレットのある世代には、はたしてこれらの感覚は共有できるのか。

そのようなことをBGMにトマトを齧りながら思っていた。
昼にはトマトの苗をベランダにあるプランターに植えた。プランターの底に空いた穴よりすこし大きめにカットした網を引く。その上に根腐り防止用の石を置く。そこへ腐葉土を流して、苗を置く。添え木を立てて終了。
最後に”アブラムシやハムシがつきませんように”と念を込めた。